歴史的にも重要な意味を持つ磐梯山のふもとに佇む磐椅神社の周辺には、他にも多くの歴史的なスポットがたくさんあります。
磐椅神社を信仰していた会津藩祖保科正之公が御祭神の神社。 江戸幕府二代将軍の徳川秀忠公のご落胤で、三代将軍の家光公、四代将軍の家綱公を輔佐し幕府を支えました。 秋には真っ赤な紅葉で境内が彩られ、ライトアップも行われます。
会津藩初代藩主の保科正之公は1672(寛文12)年12月18日に江戸で62歳で亡くなられた。 生前、「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓と決めていたので、二代藩主正経が遺言通りお墓を造営しました。(猪苗代町教育委員会の案内板から引用) 土津神社から北に向かって参道を歩くと奥の院に行けます。車で奥の院近くまで行くことができます。
保科正之公に高遠藩から仕えていた重臣。正之公が四代将軍徳川家綱の補佐として長年、江戸にいたために、藩主が留守の会津藩の執政を預かり大きな功績を挙げた。寛文12年5月28日に没した。62歳。 正行公がこの年8月21日に磐椅神社を参拝し、正玄の墓に立ち寄った際、「正玄、ここにあるか我も近くに参るぞ」と呼びかけ、一同が涙を流したという。(墓所案内板から引用) 幕末に松平容保の家老として活躍した田中土佐は正玄の子孫。 土津神社から磐椅神社に向かい土田堰沿いを歩いてくると、右手に案内の柱があり、そこから少し下ると墓地がある。
磐椅神社の前を流れる川は土田堰。 裏磐梯から流れる長瀬川から、長坂地区の上流から取水し、端まで約12キロの水路。現在は猪苗代町内の約1/3の980ヘクタールの水田を潤している。 初めは土津神社神領の水田開墾の用水として、1674年に開削された。(猪苗代町土地改良区の案内板から引用)
磐椅神社までの本来の参道は徒歩15〜20分の道のりです。車は通行できないのでご注意下さい。途中には諏訪神社、愛宕神社、大山祇神社などがあります。クマなどにはご注意ください。
会津地方を中心に分祀された磐椅神社が各地に残っています。 江戸時代の地理書「新編会津風土記」によると9社の記録があります。
現在、Googleマップで探すと少なくとも以下の場所に磐椅神社が確認できます。