神秘なる森に
鎮座する社
磐椅神社

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会津磐梯山の麓に鎮座する社

日本人が古来より大切にしてきた神道。
日本人の生活文化全般に浸透し、
外来文化が流入し文化の変容を経ても
神道は日本人にとってかけがえのない
教えとして尊重され続けています。
神々に祈り、感謝を伝えることは
あなた自身の心と向き合うということ。
会津磐梯山の大神として信仰を集める
磐椅神社は周囲を森林に囲まれた場所に
ひっそりと鎮座しております。
慌ただしく過ぎる日常から少し離れ、
自己を省みる時間を過ごしましょう。

御神体について

御祭神

大山衹神(おおやまづみのかみ) 埴山姫命(はにやまひめのみこと)

相殿

木花佐久夜毘賣命(このはなさくやびめのみこと) 磐長姫命(いわながひめのみこと) 品陀和氣命(ほんだわけのみこと) 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

御由緒について

会津はもとより県内外の人々から「いわきさま」と親しまれている社。十世紀に成立した全国の格式ある神社の一覧「延喜式神名帳」に耶麻郡一座としてあり、会津地方の伊佐須美神社(会津美里町)、蚕養国神社(会津若松市)とともに延喜式内社として信仰を集めた。 磐椅神社を信仰したのは徳川二代将軍秀忠の子で会津松平家初代藩主の保科正之。会津藩の礎をつくり、徳川四代将軍家綱の補佐役を務めた名君。その正之公は神道に深い関心を寄せ、神社の保護に力を注いだ。万治2(西暦1659)年、猪苗代湖が一望できる磐梯山のふもと見弥山にある当社に参詣して神事を行った。正之公は「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」との遺言書を残し、末社として当社西側に土津大明神(土津神社)が造営された。正之公は奥の院の墓所に眠っている。 磐椅神社の起こりは応神天皇の御代(弥生時代)、神功皇后摂政五十(250)年。武内大臣の巡視の時に勅命を奉じ、国土開発の神とされる大山祇神と埴山姫命を磐椅山(現在の磐梯山)の頂上に鎮座された。磐梯山は明治二十一(1888)年の大爆発で変形したが、以前の山の形は整い、山頂は高く天に向かってそびえ立ち、石(磐)の梯(はしご)のように見え、まさしく「いわはし」の山だった。 その後、聖武天皇の御代(奈良時代)、天平元(729)年八月二十五日、磐梯山のふもと見祢山南麓に遷座し、相殿として品陀和氣命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)を祭った。これらの神々は縁結び、豊作祈願、方除開運など全ての開発開運の神様として古来有名です。 村上天皇の御代(平安時代)の天暦元(947)年、勅使の派遣があり、その時に宸翰物(天皇自筆の書)と桜樹を奉献して社殿を修復した。この時の桜樹が大鹿桜である。花弁の中から葉が出るという珍しい桜で、見ごろは4月下旬から5月上旬。会津五桜の一つである。順徳天皇の御代の承元元(1207)年、猪苗代城主の三浦経連が現在の場所に旧社殿のまま遷座し、杉を植えてこれを鳥居杉と命名した。鳥居杉は2本あったが、西側の杉は落雷と長雨により昭和六十一(1986)年に倒れた。残った鳥居杉の幹には山桜が根付き「えんむすび桜」と命名された。見ごろは4月中旬から下旬。 現在の社殿は大正十(1921)年に建てられた。会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として人々の信仰のよりどころである。磐椅神社は会津の土着信仰に基づく神体山崇拝の社で、東北の文化的、精神的な一大支柱として今日にいたっている。


磐椅神社の年表

※磐椅神社伝承、磐椅明神旧記、新編会津風土記、猪苗代地方史研究会会報、郷土歴史家川井源治氏の猪苗代町磐椅神社覚記、猪苗代町史などをもとに作成

250(神功皇后摂政50)年 応神天皇の御代(弥生時代)、武内大臣の巡視の時に勅命を奉じ、国土開発の神とされる大山祇神と埴山姫命を磐椅山(現在の磐梯山)の山頂に鎮座した。
729(天平元)年8月25日 聖武天皇の御代(奈良時代)、見祢山南麓の現在地から20軒(約36メートル)南の場所に遷座。相殿に神宮皇后、応神天皇の二柱を祀る。
806(大同元)年夏 平城天皇の御代(平安時代)、磐梯山の噴火で社殿が壊れたが、813(弘仁4)年、嵯峨天皇の御代に造営される。
810-820年 弘仁年間に、10年がかりで社が普請(建築)され、蚕養宮、稲荷宮、若木神、道祖神、粟島神、駒形神の六社が末社として境内に祀られる。毎年8月25日〜28日を祭礼とする
855(斉衝2)年正月 朝廷より「陸奥国石椅神加従四位下」が与えられたと文徳実録に載っている。
927(延長5)年 この年にまとめられた延喜式神名帳に、伊佐須美神社、蚕養国神社とともに磐椅神社が定められている。
947(天暦元)年 村上天皇の御代(平安時代)、勅使の派遣があり、その時に宸翰物(天皇自筆の書)、御物の他に白普賢の桜樹1本が奉献され、社殿を修復した。この時の桜樹が大鹿桜である。
1205(元久2)年 土御門天皇の御代(鎌倉時代)、猪苗代城主の三浦経連(猪苗代経連)から社領8千余町の寄進があり、順徳天皇の御代の1207(承元元)年、現在の場所に旧社殿のまま御遷座し、杉を植えてこれを鳥居杉と命名した。承久年間(1219~21)には三浦盛常が2300町を寄進した。
1288~92(正応)年間 伏見天皇の御代、藤原氏の女が天皇の威光が衰えるのを嘆き、応神天皇と神功皇后の御影を造り、神鏡金銀の弊額などを添えて、1295(永仁3)年に密使によって奉献した。
1589(天正17)年 伊達正宗による摺上原の合戦後、一時衰退。
1593(文禄2)年 蒲生氏郷が二百石寄付
1599(慶長4)年 上杉景勝が二百石寄付
1601(慶長6)年 蒲生秀行入府後、社領の没収、切支丹によって社人は苦しめられ、その後は社殿は損じて御物多く紛失し、鐘楼廻廊をはじめ、社人の住宅など切支丹宗教のため焼き尽くされたと磐椅明神旧記に残る。
1661~72(寛文)年間 江戸時代に入り、会津藩主保科正之公が社殿を造営した。1659(万治2)年、正之公が当社に参詣して没後は末社とすることを告げて神事を行う。よって当社の西側に末社として土津大明神(土津神社)が造営され、正之公は奥の院の墓所に眠る。
1743(寛保3)年閏4月12日 正一位の神階を授かった。
1869(明治2)年 神号は磐掎、岩椅、石椅との表記があったが、民政局から磐椅(いわはし)とする通達があって改めたという。
1920-1921(大正9-10)年 本殿と拝殿を改築
1934(昭和9)年 雪崩で拝殿が倒壊。
昭和40年代 社殿より100メートル南の参道の二の鳥居が老朽化で倒壊。
1972(昭和47)年 県社磐椅神社の社銘碑の場所の一の鳥居が老朽化のため解体。
1986(昭和61)年 長雨により西側の鳥居杉1本が倒れ、現在残る東側の鳥居杉に、えんむすび桜が根付く。